コウカナ?と思ったことを書いてみる。

「そんなに語りたきゃ自分のブログでやれ!」「…ハイ、そうします/_;」ネット掲示板で読んだあれこれにコウカナ?と思った事を日々投稿してます。このブログはその覚え書きです。

小4国語「走れ!」の母親にダメ出しをする

小学四年生の国語の教科書に載っている「走れ!」という話にずっとモヤモヤしています。
そのモヤモヤをダラダラと散漫に書きなぐります。

教科書が今手元にないので、記憶だけで書きます。
また、話の内容を別にして、教材としての読解力養成効果とかは専門家じゃないのでわかりません。

この文章を書くために検索したところ、国語の指導案や子供たちの感想などがヒットしたのですが、それは読まずに書きました。

あとで読んで見てまた考えたいと思っています。



あらすじ
主人公は小学3年生ののぶよ。父は死去、母と弟と暮らす。父の残した弁当店を切り盛りする母は忙しい。毎年運動会には来てもらえないが、今年は手伝いの人に店を頼んで抜けて来ると約束してくれる。足が速い弟に自分のかけっこには間に合うかなと聞かれた主人公は、無理かもとは言えず「たぶんね」と答える。
当日、実際には母は間に合わず、昼休みに現れる。弟は母をなじり、母の作った「特製弁当」も弁当店の商品を詰めたものだったので食べないと言い走り去る。母は仕方なく主人公と食べようとする。割り箸の袋には子供たちを応援する母のメッセージが書かれていた。
のぶよはもやもやを抱えたまま徒競走に出場する。
約束を守れなかった母、わがままな弟、二人に気を使い我慢ばかりで、しかも足が遅くて運動会では活躍できない自分。
しかし、走るのぶよを応援する二人の声が聞こえて、ぐんと背中を押されたように心が軽くなる。最後は三人の笑顔で終わる。
(のぶよが弁当を食べたかどうか記憶が曖昧です。この稿では食べたことにして書きますが、食べてないかもしれません)


感想
なんか三人ともダメダメじゃん!
特に母親!
できない約束はするな!
急に大口の客が入ったからって、そういう事もあるだろうから運動会の日は休業にしとけ!
無理ならパートの人数を増やしとけ!
それも無理なら子供に「悪いけど運動会は無理、仕事というのは大事で、そういう事もある」と、泣かれても仕方ないから事前にいいきかせておけ!
それを怠るから年端も行かないのぶよが心を痛めるんでしょう!
 
弁当も「特製弁当」がどんなのがいいか、子供にちゃんときいてやりなさいよ。運動会前に家庭で話題にしないの?それができないくらい普段仕事で疲れてるなら「自分の考えた特製弁当が子供の希望とは合わないかも、店の物と同じというのは特製とは思わないかも」と想像くらいしておこうよ。

三者が子供に「お母さんも頑張って弁当作ってくれたし、お店のもとても美味しいし、たくさんはいってるじゃない」と諭すのとは違うよ。親が、勝手に子供の期待を見誤って自己満足でやった事が喜ばれなかったからと言って小ニの子の前であからさまに落ち込むなと言うのよ。オロオロしてるのぶよの前で淋しそうにするなと言うのよ!

そして昼食抜きになる子供を追いかけも探しもせずに放っておくな!そこは、がっかりさせたことはしっかり謝り、だけど気に入らないかもしれないが弁当はちゃんと食べるように言い聞かす所でしょうよ!


弟ものぶよとたいして年齢は違わないのに幼くわがままだし、のぶよも母に似たのか安請け合いをするのはダメだけど。

のぶよはむしろ「お母ちゃんが来れるかどうか姉ちゃんは分からん。自分でお母ちゃんにききな」「弟、わがまま!」くらい言えばいいのに。
弟もどんな弁当がいいかはっきりリクエストするとか。

みんなしてはっきり言わないで事態を悪化させている。

このままじゃのぶよ、病むで。

百歩譲って、親だって万能じゃない、先を読んだり事前調整が苦手な人もいるし、感情があるのだからうまくふるまえない時もあるとしたってだよ、親がうまくやれなくて不味いことになってるのに自分が一番可哀想かのような態度はどうなん?
弟が弁当拒否してどこかへ行ったあとの母親の描写は「淋しそう、悲しそう、辛そう」としか読み取れなかった。「のぶよや弟に悲しい思いををさせてしまって悪かった」というふうには感じられない。
子供の立場からは親を責めるものではないだろうけど、私は同じ親の立場なのでこれは猛省するべき状況だとしか思えない。
そしてなんの反省シーンもなく最後の声援でイイハナシにしちゃうのは作者としてどうなん?

私には、この母親は愛情はあるけど子供にあまり関心を持ってなくて独りよがりの行動をする人に見える。
この母親、子供の気持に一個も共感してないじゃん。
弟がかけっこ見てもらえなかった悲しさにも、思ってた弁当と違ったがっかりにも、のぶよが板挟みになってる辛さにも、何一つ声かけてない。
声掛けどころか、母がのぶよが板挟みで苦しんでる事を察している描写もなかったよね?

え?そこを声援で表現してるのを読み取る話?
は?

言葉で言おうよ!!

ヒトは言語を持つ動物だよ!


児童は主人公ののぶよに感情移入するでしょう?そしたら弟や母親の悲しみをぶつけられても彼らの気持ちを察して自分は我慢して、のぶよの気持ちを彼らが察する描写はなく、声援一つで「ああ家族って言葉がなくてもわかり合える、やっぱりいいな」みたいに誘導されちゃうわけ?

少なくとも私には、母親と弟はのぶよの辛さを察したから声援したとは読めないよ。声援に家族の愛情はあったとしてものぶよの気持ちへの関心はないのでは?
・弟の気持ち(想像)
あっ、姉ちゃんが走ってる! 俺は足速いけど姉ちゃん遅いな、やっぱり応援してやらなきゃ!
・母親の気持ち(想像)
弟のかけっこは見られなかったけどのぶよには間に合ったわ。お昼は弟がどっか行っちゃって気まずかったけどのぶよは文句も言わず弁当食べてくれたし、私もいつまでもウジウジしてないで応援しなきゃ。あら弟も機嫌直ったみたい、よかった!
……てなもんじゃない?

いやいやいや「家族っていいな」に持っていくなら母が「のぶよ気を遣わせてごめんね。」と言うのは必須でしょ?

・主人公は家族の気持ちを察する
・でも主人公の気持ちは察されていない
・諸々すっとばして「家族愛バンザイ」
雑か!
そこ諸々すっとばしたらダメじゃん?
そんな行間は読みたくないぞ!

ニュートラルな状況でなら察する事を否定するわけじゃない。でもこの話は主人公があれこれ気を使った結果辛い状況になっている。それなのにさらに家族の愛を察して前向きな気持ちになるなんて……、察する事を肯定しすぎじゃないか?
それは察される事を他者に求める事に繋がってしまわないか?

私は、我が子に「はっきり言わなくても愛情は伝わるよ」「我慢して辛くても愛を察することができたら幸せだよ」なんて教えたくない。我が子に教えたいのは、

準備はしっかり
気持ちはちゃんと言う
できない約束はしない
約束破ったら謝る

ことだ。
そして自分の感情を子にぶつけない親でありたいし、子供に辛いことがあったならその気持ちに寄り添いたいと思う。そのために子供がどんな気持ちか、何を考えてるか知りたいと思う。
最後のはまあ、やり過ぎると過干渉管理型になってしまうので加減が難しいけれども。


もう少し違うことも考えた。
主人公が自分の気持ちを察してもらえなくても家族なりの愛を感じて走る原動力になると言うことはありうる。
ただそれは、
・家族は私に関心はない
・人に関心がないタイプなのか、私が軽んじられているかはともかく、彼らも自分も不完全な人間なのだからそれはしょうがない
・私の求める物とは違うが彼らなりの愛情は確かにある
という諦念とともに湧き上がる力だろう。
小学生の心理じゃないよ。
小学生にそんなこと思わせちゃいけない。